僕は極度のめんどくさがリストだ。
少しでもめんどくさいと感じることがあれば「どう回避するべきか」という試行錯誤するのが常だ。
むしろめんどくさいことをやった方が明らかに早く済むだろうとわかっていても、回避方法を模索する。
そんな人生を送っていた。
だけど、熊本地震という大きな震災を体験して、僕の心に残ったのは「めんどくさい」を回避するのはやめよう。
という思いだった。
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「死」の後には何も残らない。
と題して記事を書いたことがある。
この部分の考え方は震災前から持っていた。端的に明日死ぬとしたら今やっている人生は本当に自分のやりたいことか?と問うことは大事だよ。という話。
だけど震災前後でこの考えがかなり根深くなった。深く深く根を張った。
多分。リアルな「死」を意識したからだと思う。
「本当の死ぬかもしれない。」という感情は自分の人生観を変えるには十分すぎるほどのエネルギーがある。
めんどくさいの中には本当にやるべきことがあった。
極度のめんどくさがリストの僕は、人と会うのが苦手だ。
それは親・兄弟・友達全てにおいて、遊ぶということも苦手だ。職場での飲み会や友達同士の同窓会も約束はしたとしても、当日に近づくにつれ「めんどくさい」が芽を出してくる。
しかし、震災を体験し思ったのは「人は死んだら人に会えない」ということだ。
「死」を意識した僕はその考えに触れることができた。
なので僕は「親」「友達」に会うことにした。
震災から3日後のことで、食料や水の確保に奔走していたため、かなり時間が汲々としていたんだけど、「会うのがめんどくさい」は辞めることにした。
時間は少なかったためタイミングで会える人は少なかったが、とりあえず会った。意味もなく家族や友達の家を訪ねることは僕の人生の中で初めての出来事かもしれない。
しかし、その会うという行為の中に本当大切なことがあることを理解できたのだ。
2度の地震、もう何が起こってもおかしくない。
熊本地震は前震と本震で2回も震度7の地震が起こっている。
いまだかつてない地震ということで、もうこれは何が起こってもおかしくないのだと意識した。
この記事を書いている今は震災から2週間程度たっているが、余震はまだ続いている。
感覚や強さは少しずつ広がり弱まっているように感じるが、いまだかつてない地震なのだから、もう一度同じ規模の、いや、さらに強い地震が起こりうる可能性もある。
目の前にある死の影を見てしまった時、めんどくさいを辞め、今自分がその死ぬ瞬間までに後悔しない生き方をどうやったらできるかを考えている。
月見的(@tuki_mizu)見解
やはり人間は「死」を意識することで本当にやるべきことに気づくということがわかる。
僕の中の「会うのがめんどくさい」という感情は地震後にガラリと姿を変えた。
死んだ後では会えない誰かにあっておくべきだと感じたのだ。
もちろん人に会うだけじゃない。今の仕事や仕事に関する考え方。人との接し方。生き方。
全てに影響を与えられている。
「死」を意識することで、今日という1日をどう大切に生きるのか、日々の「めんどくさい」に埋もれている本当に大切コトを濃厚に感じることができる。
感度が鋭くなる感覚がある。この感覚をもっと鋭く大切にしていきたい。
震災というのは誰しもに起こりうる現実。
それでは、月見水太郎(@tuki_mizu)でした。